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自分を愛せるようになるには

  • 執筆者の写真: Shannon N. Smith
    Shannon N. Smith
  • 2018年7月1日
  • 読了時間: 6分

 つい先日、わたしのTEDxトークをご覧いただいた方から次のような質問をいただきました。

(トークはこちら。日本語字幕付きです。もし日本語字幕が表示されない場合、設定でオンにしてください)

「どうやったら自分を愛せるようになりますか?」

 わたしはその場で、自分の体験を話しました。

 結論から言うと、私の場合は、愛する前にまず受け入れがあって、受け入れるには、その必要に迫られることが必須であり、その前に「ありのままの自分」に気づくというプロセスがあった、と伝えました。

 その方への回答からも見て分かる通り、わたしは「自分の場合はこうだった」と話すことしかできません。これが全人類に当てはまるかなんて、検証していないからわかりませんし、わたしは人生の『答え』なんて知りません。すべて私の「思い込み」でしかないかもしれません。

 ただ、体験的には、上述した順番でわたしは、大嫌いだった自分を愛せるようになって、生きるのが楽になりました。

 少し具体的に説明させてください。

 上に述べたことをステップとしてまとめると以下の通りです。

0.気づく

1.受け入れる

2.愛する

 まず0の気づきがあって、1の受け入れがあって、初めて2が成立した、ということです。

 ではこの気づくとは、具体的にどういうことでしょう?

 わたしの場合、具体的には瞑想の実践を通して、「ありのままの自分」に気づくことが初めて可能となりました。他の手段でもできたかもしれませんし、できなかったかもしれません。今となっては過ぎたことなのでわかりません。

(ちなみにTEDxのトークでは、朝起きた直後に頭に浮かんだことをバーッと書き出すことの実践も紹介しています。が、これはどちらかというとおまけです)

 当ラボではマインドフルネスを標榜しておりますが、わたしが特に初期のころ(28歳の頃。2018年6月現在39歳)に集中的に実践したのは「マハシ式ヴィパッサナー瞑想」です。

 日本ではアルボムッレ・スマナサーラ長老が、その分野では最も有名なお坊さんかと認識しております。

 わたしは彼の著作を読み漁り、動画なども見て、毎日瞑想を実践しました。

 仕事以外のほとんどの時間を充てていたので、平日でも2~3時間は当たり前。週末であれば、10時間を超えることもしょっちゅうでした。

 当時のわたしは、「早く悟りたい」という気持ちに激しく執着していて、上座部仏教で言うところの五戒(嘘をつかない、お酒を飲まない、生きものを故意に殺さない、人のものを故意に盗まない、不道徳な性行為をしない)も律義に守っていました。

 逆に言うと、五戒を守っていたからこそ、当時、深夜帰りの多かったIT産業で働いていたにも関わらず、毎日たくさんの時間瞑想ができたのかもしれません。飲み会などほぼすべて断っていました。

 カルト活動を通して、友だちもほぼすべて失っていたことも、寄与していたと思います。

 さらにのちには、スマナサーラ長老以外の人が教える瞑想法(例えばアジャン・ブラム、アジャン・チャー、アジャン・ブッダダーサ等々。基本的には上座部系)も実践しました。

 では当時のわたしはなぜ「早く悟りたい」という気持ちに執着したのでしょうか?

 それは、その直前まで人生の『答え』を、顕正会と、その後の日蓮正宗の信仰を通して、得ていた状態から、一気にそれを失ったことが不安で仕方なかったからです。

 また、様々な人生上の失敗を犯してきた自分に自信が持てなくて、自分が嫌で嫌で仕方なくて、「理想的で完璧な自分」に変わりたかったのです。

 そんな動機で、自らと真正面から向かい合う瞑想を実践し続けたところ、ついには精神的に壊れてしまい、仕事も手につかない状態になりました。現実はあまりにも理想とかけ離れていました。

 医者に診てもらったところ、はじめは「うつ状態」その後は、「うつ病型統合失調感情障害」との診断を下され、会社を半年間休職せざるを得ませんでした。その間は瞑想も実践できませんでした。

 薬物と食事療法で何とか復職できる状態までは持ち直したあたりで、わたしは一度離れた日蓮正宗の門徒を叩きました。もう頭は混乱状態です。自分でも何でそんな選択をしているのかわかりません。

 そこで彼らの勤行を実践し、一時的に元気になったように感じたのですが、すぐに気がついたのです。これは現実逃避である。そもそも信の世界に見切りをつけて知の世界に飛び込んだのに、何でまた戻ってきているんだ。まだやり切っていないじゃないか、と。

 そしてまた狂ったように瞑想実践を再開したところ、すべてがつながったのです。

 ようやく「ありのままの自分」に、気がつくための条件が整ったのです。

 そもそも自分の意思で選択して生きてきたわけじゃなかったんだ、と。

 こういうことです。それまでの自分は、自らが、自分の人生の舵を取って選択して生きているように思っていたのです。主観的には、間違いなくそうしているように感じていました。私が育った西洋文化では『自由意志』ということが貴ばれていて、わたしは自らの『自由意志』のもと、生きてきたと疑っていませんでした。が、そもそも自由に選択する自分というものは成立しえない、ということに気がついたのです。

 これが「ありのままの自分」です。自分以外から独立して存在している自分なんてそもそもいないし、ありえない、ということです。これは存在の表層レベルの話ではありません。

 これに理屈抜きに気がついた途端、1の「受け入れ」と2の「愛する」は自動的に起こりました。

自分のことが嫌で嫌で仕方ない自分をそのまま受け入れざるを得なかったのです。

 自分を嫌う自分を変えて、愛せる「理想的で完璧な自分」になろうという気持ちが消えたわけではありません。

そんな気持ちがあっても、あるいは無くても、いいんです。

 自分の意思で受け入れているわけではないのです。

 そして、愛する、という点に関しても同じです。

 わたしがここで言う「愛」という言葉の意味は、「そのままでいて良いんだよ」と言う気持ちです。

 逆に言うと、「自分にとって都合よく相手(自分)を変えよう・コントロールしよう」というのは「愛」とは対極にあるものです。

 ただ、仮に「自分にとって都合よく相手(自分)を変えよう・コントロールしよう」と思う自分がいても、それはそれでいいのです。それもひっくるめて愛している、ということです。

 言わんとしていること、伝わっていたらうれしいです。

わたしはこの辺に、言葉だけで人に何かを伝えようとするときの限界を感じます。

「ありのままの自分」それはある価値観に基づくと、ものすごくだらしなく、自分勝手、欲望と怒りの塊、サイコパス的気質を有する、どうしようもない存在です。

 でもわたしの場合、そんな自分を受け入れ愛せたとき、生きるのが楽になり、初めて「自由」を感じました。

 さらには、他者にたいしても、はじめて愛でもって接することができるようになりました。

生きとし生けるものが幸福でありますように

 
 
 

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© 2017 by Shannon N. Smith.

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