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自らのサイコパスを認めたとき、ようやく「人」生がスタートする

  • 執筆者の写真: Shannon N. Smith
    Shannon N. Smith
  • 2017年5月5日
  • 読了時間: 6分

「おっと、何言ってやがるんだこいつ」。なんて声が聞こえてくるようなきがします。 笑

はい、タイトルの通りです。あなたはある視点から見るとサイコパスなんです。

もちろん私もある視点から見るとサイコパスです。

そもそもサイコパスって何でしたっけ?

おそらく多くの方は連続殺人鬼みたいなのを想像するのではないでしょうか。

ちょっとここでWikipediaさんから引用します。

犯罪心理学者のロバート・D・ヘア氏の説を引用すると、こんなことが書いてますね。

・良心が異常に欠如している

・他者に冷淡で共感しない

・慢性的に平然と嘘をつく

・行動に対する責任が全く取れない

・罪悪感が皆無

・自尊心が過大で自己中心的

・口が達者で表面は魅力的

(引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E7%97%85%E8%B3%AA)

やばいですよ。これは。いや、本当にやばいと思いますよ。

これらの項目をすべてよくよく見てみると、自分以外の「他者」との関係性を述べていることが見えますね。

「他者に冷淡で・・・」とかは言うまでもなく、「嘘をつく」のも相手がいればこそできるわけですし。「罪悪感」というのは少し分かりにくいかもしれませんが、これは「善」という概念があって初めて成立して、この「善」という概念は他者との関係性があって初めて成立するものです。(これに関しては長くなりそうなので、また別の機会にでも触れたいと思います)。

そこでですね、この「他者」というのを人間に限定して考えているのが、いわゆる犯罪心理学の発想です。(ですよね。もし間違っていたらご指摘願います)

ところが、ここを「他の生命」との関係としてとらえると、全く違った世界が見えてきます。

あなたも蚊やゴキブリ、その他何らかの生命体を故意に殺したことありますよね?

もし「ない」ということであれば、それは素晴らしいことだと思います。

でもおそらくほとんどの方はあるだろうと思います。

そこで例えば、蚊をひっぱたいて殺した時、あなたはその瞬間一つの生命を「殺した」という認識を持ちましたか?

あるいはその蚊を殺してしまったことに対して涙を流しながら謝って葬式をあげましたか?

罪悪感で眠れない夜がつづきましたか?

NOですね。答えは。

むしろ、寝苦しい夏の夜に耳元を「ブーン」と飛ぶ蚊を激闘の末しとめて、罪悪感どころか安堵感を抱いた経験すらあるのではないでしょうか。

あなたはその蚊から見れば残忍極まりない「サイコパス」なんです。全く「良心」なく、その蚊に対して「冷淡」でその命の炎が尽きる姿に対して全く「共感」せず、「殺した」ことに対して「責任」を全く感じず、「罪悪感」もなく、そもそも自分の血を吸っている蚊が殺されるに値するほど悪いことをしたと過大な「自尊心」をベースに「自己中心的」判断を下して、殺したのですよね?

いや、蚊から見ればそうです。

「まあ、OK。蚊から見ればサイコパスってことはわかった。んで、だから何?」って。

はい、でも結論はもう少しだけ待ってください。もうちょっとだけ例を。

順序が逆転しますが、多くの人は人の死に対してもサイコパス的態度を取ることがあります。例えばドラマや映画で悪人が殺された時にスカッとした経験、あなたも一度はあるんじゃないですか? もしあるとしたら、人の死に対してあなたはスカッとしたのですよ。「冷淡」ですね。

この場合、相手がキャラとして極悪非道であればあるほど、そしていわゆる「正義感」の強い人ほど、悪人がやられたことで気分が高揚したんじゃないですか。

まあ、でもフィクションの世界ですもんね。

でも、本当に人が死んでいるのに、それについて同情を示すどころか、イラッとしたことがある人もいますよね? 正直に告白します。わたしはあります。

例えば、電車の人身事故。わたしが実際によく見る光景の一つには、朝の満員電車の中で、車内放送で人身事故があって、その影響で電車が走れない、あるいは遅れる等々のアナウンスを聞いた人々の恐ろしいリアクションがあります。舌打ち。「おいおい、どうしてくれるんだ、大事な商談に遅れるだろう」と口に出さずとも、そう語る表情。「せめて人に迷惑をかけない死に方しろよ」と言わんばかりに眉間に寄せた皺。人が死んでいるんですよ。同種族ですよ。でも悲しいかな、わたしもそう思ったことあります。

こういった例は膨らまそうと思えばいくらでも出てきますよね。

また人間以外の生命の例に戻ります。上述した蚊の例みたいに直接的な殺生以外にも、私たちは間接的な殺生にも日常的に関与しています。生きている以上は。

食べ物を食べるというのはその食べ物の命をいただくということだというのは誰でも知識としてはご存知かと思います。でも実感を持っている人は少ないのではないでしょうか。

あなたが一日長く生きるということは、それだけあなたの命を永らえるために他の生命が死ぬということです。

その死んだ生命一つひとつに対する態度は、上の蚊に対するものと大して変わらないのではないでしょうか。

生きたまま魚を食べる習慣が日本にはありますね。まだ生きた魚を箸でつついて「うまっ!」とか「わあ、おいしー」って騒ぎながら食べたことのある人もいるのではないでしょうか。

これもサイコパスちっくですね。

「おいおい、そんなこと言ったらもう生きてられないですよ」って。

はい、その通りだと思います。そんなこと言っていたら、生きていられないですね。ご飯を食べるたびに罪悪感を抱かないといけないみたいな、変な強迫観念に取り憑かれそうですよね。

でも、事実はそうです。

つまり、生きるというのは、矛盾をはらむということです。

世の中でとても立派な人として崇められている人も、直接・関節、他の生命の死に関わっていて、それについてサイコパス的態度でいるのです。

そんなものなんです。

わたしもそうです。こんな偉そうにぺちゃくちゃ言ってますけど、しょせんそうなんです。

「じゃあ、あなただけでもせめて直接・関節の殺生にかかわらないために、死ねばいいじゃないですか」って。

おお、確かに。昔そう思って自らの命を絶とうかどうか本気で悩んだ時期もあります。でもいろいろ考えた結果、自らの命を絶つよりも生きたいという気持ちの方が強かったので生きることにしました。やっぱ、自分がかわいいんですよ。あと、自殺って何か違うような気がしたのです。

また、せめて動物の殺生にだけでも間接的にかかわらないためベジタリアン・ビーガン・フルータリアンをやっていた時期もあります。

「じゃあ、何よ!」って。

生きるということは矛盾をはらむということに目を瞑らないで生きると、一言で言うと、私の場合は生きるのが楽になりました。そして他の生命に対して精いっぱい優しくしていこう、という気持ちが本当にわきました。自分をよく見せようという気持ちも薄らぎます。だって、いくら格好つけたって、他の生命の犠牲の上に生きているのですから。謙虚にならざるをえないのです。他の生命の幸福を精いっぱい願わずにはいられないのです。

自分の中にあるサイコパス的残忍性を認めるというのは簡単なことではないと思います。でもそれが「生きる」ということと真正面から向き合うということだと思います。

真正面を向いた時に、ようやく本当のスタートラインに立つのです。その先に本当の優しさや幸福、そして「人」生があるのです。

綺麗事に塗り固められた嘘っぱちの人生にはさよならをして、本気の「人」生、一緒にしてみませんか。

生きとし生けるものが幸福でありますように

 
 
 

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© 2017 by Shannon N. Smith.

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